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◆冷たい「福慈の神」ギザギザにとんがった富士山の山頂に、おかっぱ頭の女の子が突っ立ち、ニッコリと赤い口をひろげて笑っている。小学校の低学年、図画の授業のときに描いた。よく描けたと思いこんでいたが、担任の先生に「こんなに大きな女の子はいません。わからない?」とさとされた。純真な少年のこころは傷ついた。以来、図画の授業はもちろん、富士そのものもキライになった。だが富士は自宅からだけでなく、小学校や中学校、高校の窓やグラウンドからも、毎日のように眺められた。とりわけ高校時代は、学校のある場所の関係から、富士を仰ぎ見ながらの通学となった。暗鬱(あんうつ)な思春期とかさなり、その美しさが暗転し、嘲笑(あざわら)われているような気分におちいった。以上は私事(わたくしごと)である。その富士が来月、世界遺産に登録される。ここはすなおに慶賀すべきであろう。だがいまだに、ちいさなトゲのようなものが、刺さっているのも事実である。◆二律背反の意識富士は記紀万葉の時代から、貴顕たちに好んで詠(うた)われ、たたえられた。だが富士を忌避する古文書や文学も探せばある。奈良期の地誌『常陸国風土記(ひたちこくふどき)』には、こんなくだりがある。「昔、祖(みおや)の神尊(かみのみこと)が多くの(御子)神たちのところをお巡りになって、駿河国の福慈(ふじ)の丘(やま)にお着きになると、とうとう日が暮れてしまった。そこで一夜の宿りをとりたいと頼んだ」ところが福慈の神は物忌み中だから、泊めることはできないと断った。祖神は「親知らず」とののしったうえ、冬も夏も雪でおおい、だれも登れない山にしてやると仕返しのコトバをはなった。祖神はその足で筑波山に行くと、筑波の神は物忌み中にもかかわらず、歓待してくれた。風土記そのものがお国自慢の要素が強いから、間引いて読むべきであろう。このくだりを下敷きにしたのが、岡本かの子の『富士』である。福慈の神は、娘神に設定されている。その娘神は、富士はいまや「久遠劫来のもの」となり、「娘はあなたの望まれる程度に程良くなることも、娘子として可愛らしくあることも出来ません」と拒否の理由を語る。親子の情愛も富士のまえでは、雲散してしまっている。かの子は『宝永噴火』という作品も書いている。駿河国に住む僧に「あの無生物は永遠の理想を遂げたとでもいうように、白い雪の褶(ひだ)さえ折目正しく取り澄し切っている」と言わせている。だが宝永の大噴火(1707年)で、裾野に「畸形な瘤」ができてしまうと、僧にたいし、涙をとめどもなく流させている。「畸形な瘤」とは、もちろん宝永山をさす。「富士には、月見草がよく似合ふ」の名文句がある太宰治の『富嶽百景』でも、べつのところでは「どてら姿に、ふところ手にして傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである」とも書いている。地質学にくわしい大岡昇平は、富士の地質にこだわる。『武蔵野夫人』のなかで、不倫旅行で河口湖畔の宿を訪れた登場人物(秋山)に、「頭に火山礫(かざんれき)の錆色(さびいろ)を戴(いただ)いた厳(いか)めしい姿で、窓一面にかぶさって来た。秋山は息苦しさを感じた」という感想を抱かせた。『常陸国風土記』の作者も、かの子も太宰も大岡も、富士の美しさに魅せられながらも、その底にはつねに二律背反的(アンビバレンツ)な意識があった。筆者の意識と、ぴたりとかさなる。◆漱石の手厳しい警鐘文明論的にバッサリと斬ったのは、夏目漱石である。『三四郎』のなかで、皮肉屋の広田先生にこう言わせている。「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」和歌山での講演「現代日本の開化」では、上滑りをつづける明治の開化にたいし、その反動として富士を持ちだして称賛するような者を「馬鹿」とまで呼んだ。漱石の指摘したとおり、上滑りの開化のはてに、日本は無謀な戦争に突入した。米本土爆撃のために、製造が計画された爆撃機は「富嶽」という名前であった。世界遺産の登録を上滑りに喜ぶのではなく、これを契機に、富士山が日本人の心性になにをもたらしたか、ということくらいは再考してみるべきであろう。観光客が殺到し、登れなくなるような事態などにいたったら、『常陸国風土記』の祖神の呪いが実現し、それこそ「馬鹿」と呼ばれる。(論説委員・福島敏雄)(この記事は産経新聞より引用させて頂きました。)
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