男は血だらけだった。
そのかたわらで、何の変化があったのかすら、よく分からないのであろう、部屋のなかをウロウロと歩きまわりながら、ときおり主人に視線をおくっては首をうなだれる一匹の犬がいた。
男は近所でもわりと知られた、『しつけ』の厳しい、犬の飼い主であった。
犬の名前はよく分からない。
というのも、男が犬を呼ぶときは名前を呼ばず「オイ」や「オマエ」と言うからだそうだ。
飼い主が言うには、この犬は『スリッパ』に対して噛み癖があり、男は自分が履くスリッパが汚れることがどうにも気に入らなかったらしく、その犬を厳しく『しつけ』ていた。
その『しつけ』の内容とは、犬が噛んでいるスリッパを使って、犬を叩いて懲らしめるという方法であった。
こうすることによって、犬は飼い主の言うことを聞くし、スリッパを見せると萎縮して大人しくなり、スリッパを噛まなくなると考えたからである。
ある日、朝から意気軒昂に走り回り、吠えてはしゃいでいる犬がしゃくに障ったのか、男は不機嫌になってしまい、いつものようにスリッパを片手に犬の前へ歩み寄り、壁にスリッパを打ち付けて音をたて、犬を『しつけ』ようとした。
しかしながらその日に限って、壁に打ち付けたスリッパは音をたてるのではなく、むしろ空振りをしたのではないかと思われるくらいに何の抵抗もなく、床に転げ落ちていた。
長年使い続けた、スリッパが破れたのである。
一瞬の出来事であった。
それを見た犬はとっさに主人めがけて飛びつき、噛みついたのである。
男は血だらけになった。
助けを求めることもできず、なぜ自分が噛まれたのだろうかと思惟煩悶していた。
遠のいていく意識の中で、男はある結論にたどりつく。
「ああ、こいつって結局俺の言うこと聞いていたわけじゃなく、スリッパに従っていただけだったんだ」